フリーインプロビゼーション

少しややこしい話です。
フリーな即興演奏には常にどこかに形が感じられなければならないと常に思っています。
自由(フリー)というものはそれ単体で存在するものではありません。必ず、「何かから」自由になるわけです。
では、その「何か」というのはどんなものであるかというと、音楽では何らかの形です。
形は曲のメロディーからもくるでしょうし、ハーモニーもそうです、また曲の構成や曲が生み出すある一定のムードと言う
のも形の一つです。スタイルも形のうちですし、その曲にある様々な要素が形になります。
フリーに演奏する時にはそのような形を何らかの方法で崩したり変化させてその形を超えて自由な演奏ができる
ようにするわけです。この自由というものには不思議な側面もあります。なぜかというと、形の中にどっぷり浸かっていながらも自由を
感じることができます。ちょうど、能面が無表情だからこそ表情が感じられるようなものでしょうか。
ということは、自由と形(ある意味不自由)は共存しているか、もしかしてこの2つは同じものなのかもしれません。

去年あるトリオコンサートの時に一曲クラシックの曲を弾いてくれないかと頼まれました。
私はクラシックが好きなジャズピアニストで、当たり前のことですがどう考えてもクラシックピアニストではありません。
そこで、バッハの曲でフリーな即興をやってみました。すると面白いことに、ジャズの曲を自由に演奏している時より、
より自由度が増して非常に楽に演奏できました。
これは後で気がついたことですが、ジャズの曲を自由に演奏する場合はその形がまずあってそれを越えようとします。
しかし、このコンサートでは、バッハの曲を演奏しようという意思が全くなかったため、私の姿勢はまずフリーがあって、
その途中でバッハの曲から「形」を断片的に少しずつもらいながら演奏していました。バッハの曲は断片的ではありません。
その真逆で、非常に精密に創られている音楽です。ただ、クラシックの曲はジャズの曲のように
32小節などの短いフォームが繰り返される中で作られているわけではないので、元々のバッハの曲に様々な色の形が
含まれていて、それを演奏しながら手でさわるような気持ちで演奏したので私の「形」の扱い方が断片的だったのだと
思います。そして、これが、私にとってとてもいいバランスを即興演奏に与えてくれました。

この経験から、新しいソロアルバム、”Dimensions”のアイディアが生まれました。
決してクラシックの曲を演奏するのではなく、その作曲家の作品の雲の中に浮いているように、いろいろな形の部分に触りながら、
その形にガイドしてもらいながらフリーの即興演奏をするというのがコンセプトです。
結果、非常に楽しいレコーディングになりました。私は自分の勉強のためにクラシックを練習しますが、今回の
このクラシックに対する感じ方はごく一つの見方にしか過ぎませんが、確実に一つの方向性(Dimensin)でもあると
思っています。
そんな世界をリスナーの方にも感じていただけたら嬉しいです。

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