ID

生まれてからいつ頃でょうか、自分が誰ですと言えるようになるのは?「○○小学校一年一組の○○です」この辺から始まり、人は歳を重ねるにつれて自分が誰なのかにいろいろなタイトルをつけていきます。日本人、男性、女性、若者、年寄り、ミュージシャン、医者、公務員、、自分へのタイトルは数々あります。そして、さらに、「自分は○○な人間だから。自分は○○な性格だから」というのもタイトルと同じ役割をします。要は自分はこうであるという身分証明書を自分に発行しているようなものです。

でも、本当に身分を証明しなければならない時は別として、この「自分を見るための心の身分証明書」、「IDカード」は人の可能性や能力を考えた時に、自分をとても狭めて限定してしまう壁になり得ます。

もし人が自分のことを知ってると思わなかったら、自分がどこの誰だか全く実はわかっていないことに気がついたら、その人の可能性は無限大になります。

もし、アートがその人の心の深い部分を表すのなら、その深い部分はきっと心の中の私たちが全く知らない部分でそのにアクセスするためには、まず、私たちが、自分が誰か全く知らないことからスタートしなければなりません。

ですので、身分証明は人に制約を与え、NO iDは可能性を無限大にします。

それが今回のアルバム、”NO ID”です。

音楽

“Every heart sings a song, incomplete, until another heart whispers back. Those who wish to sing always find a song. At the touch of a lover, everyone becomes a poet.”
私が非常に好きな言葉です。どう訳せばよいでしょう、、
”どの人の心も歌を歌うことができて、でもその歌は不完全で、もう一つの心が囁き返して初めて完全になります。
歌いたいと思っている人は必ず歌をみつけることができて、恋人の心が加われば全ての人は詩人になれます”
こんな意味合いでしょうか、、
これはギリシャの哲学者のプラトンの言葉です。音楽は昔から全ての民族にあって、生物の中で音楽をつくりだすのは人間だけです。今では音楽は学校で教わることができて、日常に好むと好まざるとにかかわらず溢れています。音楽が使われる目的も純粋に楽しみのためもあれば、雰囲気をつくるBGMもあります。BGMと一言で言っても、自分の部屋でくつろぐ時のBGMもあれば、映画の場面で人知れず流れている音楽、これも雰囲気をつくるという点ではBGMと似ているかもしれません。また、人の心理をある一定の方向にもっていくために使われる場合もあります。音楽セラピーもそのひとつですし、お店の販売促進に音楽が使われるのも人間の心理を動かす目的です。車で音楽を爆音で聴いてノリノリで運転するのも似たような感じでしょうか。このどれも悪いものはないと思います。
音楽の入手の仕方も随分昔とは違うものになってきました。
Youtubeがあり、ダウンロードやストリーミングがレコードやCDの代わりをするようになりました。新しいものがでれば必ずマイナスな面があります。今の音楽業界や人々の音楽の聴き方や扱い方を憂う声も聞こえます。私もミュージシャンですから、もちろんその多くの声に同意する部分もあります。ですが、新しいものにも必ずプラスの面もありますので、憂うだけでもいけないと思います。
ただ、それら全てを越えて思うことがあるのですが、インターネットが音楽のいろいろな側面を変えていっても人はなんらかの形で音楽を聴き続けていくわけで、音楽のない世界というのは未来にも絶対にありえないということです。
さらに、これだけ多くの目的で音楽が使われるということは、音楽は人の心を動かす非常にパワフルなものだということです。プラトンの言っていることの根底にはきっとそんなことがあるのだなと思います。
私は自分で音楽を練習する時にいつも、昔の人が当たり前のようにわかっていたことで、今の自分たちが時代とともに気がつかなくなってしまったことがたくさんあるはずだと思ってそれを探そうとしています。
Charlie Parkerがきっと「当たり前じゃん」と思っていたことで、Jazzが発展するにつれて人が忘れていったことがあるはずです。バッハさんやその当時のリスナーが当たり前にわかっていたことで、今ピアノを弾いたり聴いたりする人が全く気がつかないようになってしまったことがたくさんあるはずです。
だって、古代ギリシャのプラトンがここまで音楽のことを深くわかってたんですから!!
それを少しでもわかりたいなと思って音楽しています。
そんなことも含めてこのブログに書いていきたいと思っています。
興味のある方は是非また時々チェックしてください!!

 

アートって必要?

「アートってこの世の中で必要?」
アート(音楽も含めその他の芸術全て)の大学を卒業して社会にでた新人アーティストたちも、長年切磋琢磨しているプロフェッショナルなアーティストも、この自問自答をしたことはきっと何回もあると思います。私もたくさんあります。なぜかというと毎日の生活をしていると決してアートがあってよかったね、ということばかりがあるわけではありません。
むしろ、それとは全く別の次元で常に物事はなりたっているように見えて、満員電車で真面目に音楽を聴いていること自体が馬鹿げているように思えることも多くあります。
そういう中にいるといつの間にか「アートなんかいらないでしょ!」って思えてくることになります。実際アートがなくても生活できるわけですし、そんなややこしいことを考えない方が物事がスムースに運ぶことさえたくさんあります。

でも、一度はアートを志した人やアートのファン、またはプロフェッショナルアーティストはそれではやってられません。自分のエネルギーと時間を一度はそこに注いできたわけですから。
ですから、「アートは必要なんだ」というさまざまな理由を考えたくなります。
人によっては、歴史を振り返って、アートが古代からあるんだから、人にはきっと必要なんだ、または、音楽が人の心に伝わった時のことを思い出して、ほらやっぱりアートは必要なんだ、という方向に気持ちを進ませようとするかもしれません。
もちろんそれは何も悪いことではありません。
ですが、たとえそういう方向に自分をもっていったとしても、その気持ちはあまり長続きしないかもしれません。少なくとも私はそうでした。
何をどう思ったとしても、次の日には会社の決算のことで頭がいっぱいになるかもしれませんし、営業成績を上げることが最優先、みたいなことが毎日の生活では繰り返されるからです。そして、また最初の質問にもどって同じ思考のサイクルを何回も繰り返すことになるかもしれません。
アイルランドの作家オスカーワイルドもドリアングレイの肖像という小説の序章で、「アートは無意味なものだ」と書いています。この彼の言葉は表面的な意味ではなく、もっと深いいろいろな意味が込められているのだと思いますが、仮にこれを表面的だけに受け取っても、全くその通りかもしれないと思ってしまうようなことが毎日の生活ではたくさんあります。

最近ひとつの本に出会いました。George Kochevitskyという人のArt of Piano Playingという本なのですが、この本には人間の脳とピアノの演奏の関係や、そこからくる練習法などが書かれています。その内容はとても素晴らしくこの本を読んでから私の練習も一段と進化することができました。
そして、この本を読んでから実際のピアノのことだけではなくそれに関連する、人間の脳のことや人体の構造のことや物理学的なことに興味を持つようになりました。

私は全く理科系人間ではありません。学生の頃の理科系科目の成績は悲惨なものでした。そんな私ですが、先日ピアノの構造を少しでも知りたいとピアノの鍵盤の構造を模型をみながらいろいろやっていた時に、ふっと感じたことがありす。
ピアノを弾くのは、まず脳が体を動かします、そして身体が鍵盤を動かし弦を振動させます。さらに弦の振動が空気の振動に伝わり音が鳴ります。
これって、生物学であり物理学であり音響学であり、、多分これ以上正確に書こうをすると私の無知さが露呈されてしまいますが、いろいろな私の知らないことが起こって1つの音が鳴っているわけです。

ちょうど、自然界と同じです。
美しい日の出を見た時、美しいのですが実はその裏では理科系に疎い私が理解することのできないさまざまなことが起こって美しい日の出をつくっているわけです。
ピアニストはただ単に音を一音鳴らしていると思っていますが、そこには自然科学のいろいろなことが起こって初めて音が鳴っているわけです。
ということは、アートって自然です。しかも人間は自然の一部ですから、アートって人間なんですね。

自然科学があるところには常にアートがあります。
大自然の中にアートがあるばかりではなく、アートは、その人がアーティストかそうでないかにかかわらず全ての人の中にもあります。鉄骨のビルの中にもあるし、満員電車だって車の渋滞の中にもあります。

アートは毎日の生活の全ての中にあります。
大切なのは毎日の、全くアーティスティックでないものの中にアートを見つけることができるかどうかだと思います。

ということは、アートが必要がどうかというのは、質問自体が間違っていることになりますね。
アートが必要かどうかという質問は、人が必要かどうか、、自然が必要がどうか、と同じです。つまり、意味のない質問です。
何をしようともアートはそこにあるのですから。
そして、実は世の中アートに囲まれているんだというリマインダーのためにアーティストは作品を創ったり演奏したりするのだと思います。

フリーインプロビゼーション

少しややこしい話です。
フリーな即興演奏には常にどこかに形が感じられなければならないと常に思っています。
自由(フリー)というものはそれ単体で存在するものではありません。必ず、「何かから」自由になるわけです。
では、その「何か」というのはどんなものであるかというと、音楽では何らかの形です。
形は曲のメロディーからもくるでしょうし、ハーモニーもそうです、また曲の構成や曲が生み出すある一定のムードと言う
のも形の一つです。スタイルも形のうちですし、その曲にある様々な要素が形になります。
フリーに演奏する時にはそのような形を何らかの方法で崩したり変化させてその形を超えて自由な演奏ができる
ようにするわけです。この自由というものには不思議な側面もあります。なぜかというと、形の中にどっぷり浸かっていながらも自由を
感じることができます。ちょうど、能面が無表情だからこそ表情が感じられるようなものでしょうか。
ということは、自由と形(ある意味不自由)は共存しているか、もしかしてこの2つは同じものなのかもしれません。

去年あるトリオコンサートの時に一曲クラシックの曲を弾いてくれないかと頼まれました。
私はクラシックが好きなジャズピアニストで、当たり前のことですがどう考えてもクラシックピアニストではありません。
そこで、バッハの曲でフリーな即興をやってみました。すると面白いことに、ジャズの曲を自由に演奏している時より、
より自由度が増して非常に楽に演奏できました。
これは後で気がついたことですが、ジャズの曲を自由に演奏する場合はその形がまずあってそれを越えようとします。
しかし、このコンサートでは、バッハの曲を演奏しようという意思が全くなかったため、私の姿勢はまずフリーがあって、
その途中でバッハの曲から「形」を断片的に少しずつもらいながら演奏していました。バッハの曲は断片的ではありません。
その真逆で、非常に精密に創られている音楽です。ただ、クラシックの曲はジャズの曲のように
32小節などの短いフォームが繰り返される中で作られているわけではないので、元々のバッハの曲に様々な色の形が
含まれていて、それを演奏しながら手でさわるような気持ちで演奏したので私の「形」の扱い方が断片的だったのだと
思います。そして、これが、私にとってとてもいいバランスを即興演奏に与えてくれました。

この経験から、新しいソロアルバム、”Dimensions”のアイディアが生まれました。
決してクラシックの曲を演奏するのではなく、その作曲家の作品の雲の中に浮いているように、いろいろな形の部分に触りながら、
その形にガイドしてもらいながらフリーの即興演奏をするというのがコンセプトです。
結果、非常に楽しいレコーディングになりました。私は自分の勉強のためにクラシックを練習しますが、今回の
このクラシックに対する感じ方はごく一つの見方にしか過ぎませんが、確実に一つの方向性(Dimensin)でもあると
思っています。
そんな世界をリスナーの方にも感じていただけたら嬉しいです。